山月記あらすじ|高慢で繊細な青年が虎になってしまった話

2022年6月20日

山中の月

「山月記(さんげつき)」のあらすじを簡単にわかりやすくまとめました。

山月記は夭折の小説家・中島敦の作品で、西暦700年代半ばの中国を舞台にした短編物語で、国語の教科書で高校生の時に読んだ方も多いと思います。

山月記 あらすじ

詩家を目指す李徴

中国の山

中国・隴西(ろうさい:地名)の李徴(りちょう)は、若くして官僚となった秀才だったが、自信家で他人と相入れず、身分の低い役人であることに満足せず、官僚を辞め人と交わりを絶って漢詩作りに専念した。

挫折

しかしなかなか詩家として名をあげることはできず、数年後、李徴は生活のためやむを得ず再び地方の役人の職についた。

かつて能力が下だと見下していた同級生たちは高い地位についていて、彼らから指示を受けなければならず、李徴のプライドはずたずたに傷ついた。

1年経過し、出張で河南省の川のほとりに泊まった夜、李徴は何かを叫びながら闇の中に駆け出し、行方不明になった。

友との再会

翌年、監察御史(かんさつぎょし)の袁傪(えんさん)という者が嶺南に向かう道中、人食い虎が出るという道で虎と遭遇してしまった。

しかしその虎は身を翻し草むらに戻り人の言葉をつぶやいていた。袁傪は驚きながらも声に聞き覚えがあり「李徴ではないか」と尋ねた。

忍び泣きと共に草むらから肯定する返事があった。

猛獣と化した李徴

親しい友だった二人は懐かしみ合い、李徴が事情を話した。

「誰かが外で呼んでいる声に導かれ、無我夢中で追いかけている内に体中に力が満ち、日が明けて湖で自分の姿を見ると虎になっていた。体が勝手に動いて兎を獲って以降、到底語れないような所行をしてきた」

「1日の中で人間の心が戻る時間があったが次第に短くなっている。当初はなぜ虎になったのかと思っていたが、今はなぜ人間だったのかと思うようになっている」

李徴は人間の心がなくなってしまうことに恐怖していた。

虎になった理由

李徴は、「記録して伝えて欲しい」と創作した詩を30編ほど諳んじた。袁傪は「確かに才能を感じさせるが何かわずかに足りないものがある」と思った。

李徴は、虎になった理由で思い当たることとして「人との交わりを避ける私を人は尊大だと言ったが、それは臆病さや羞恥心から来るものだったのだ。才能不足が露呈することへの恐れと、苦しいことを避ける怠け心で人と遠ざかって、尊大な羞恥心を飼い太らせた結果、猛獣と化してしまったのだ」「自分より才能がない者で必死に磨いて詩家になったものもいる」と話した。

李徴は「厚かましい願いだが、妻子が路頭に迷わないよう計らってくれたら幸い」「帰り道はこの道を決して通らないで欲しい。私は虎と化して襲ってしまうかもしれない」と念押しし、涙を流し二人は別れた。

再び出発した袁傪が、李徴に言われたとおり少し離れた丘から後ろを振り返ると、虎が吠えたのち再び草むらに消えて行った。

おわり

山月記の感想・伝えたいことは?

人を見下して自分の考えに固執し人と交わらなかった結果、虎になってしまった、という何とも言えない話ですが、高校の国語の授業で初めて読んだ時は、面白い話でかつ自分にだぶっているように思い、かなり衝撃を受けました(結構影響を受けた本です)

李徴は、詩家を目指そうとした時は、「俺様は秀才だから人の手助けなんて借りずに詩家になれるのだ!」または「秀才な俺は完璧であるべきだから、人の手を借りたり出来ない面を見せるわけにはいかん!」などと思っていたのかなと思います。

そして、「人間というのは、お互いを尊重し、人と交流して高め合っていく という点が他の生物との違いである」「それをしないということは、獣になり下がったようなものだ」というようなことがストーリーのベースになっているのだろうと思います。

人が成長したり何かを生み出すためには、人と交わって切磋琢磨することも重要だ、ということが作者が伝えたかったことの一つと思います。

 

ただ、今読み返して思うのは、この本が青少年たちの教訓となるのは理解できる一方、現代社会の場合は過剰適応で疲れるパターンが多いのかもしれないと思いました。

現代は、自分を磨く手段が豊富で、情報過多の社会で”こうすべき”という項目が沢山あって、切磋琢磨して頑張り過ぎて疲れちゃう若者も多いのではと思います。(そして逆に、健康のために本能を解放することの方が求められるパターンもある)

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