20世紀の喜劇王・チャーリーチャップリンは親日家として知られていますが、実は長年雇っていた秘書が日本人だったことが影響していたようです。
「チャップリンの影 日本人秘書 高野虎市」という本が興味深かったので、内容と感想を簡単に紹介します。
チャップリンの生い立ち
極貧の幼少期
チャップリンは1889年に英国・ロンドン南部に生まれますが、1才の時に両親が離婚し、母親が病気だったため、兄・シドニーとともに貧民院を転々とする極貧の生活を送りました。
両親はミュージックホールの芸人で、チャップリンにとって幼い頃から舞台が身近だったため、子役として舞台に立つようになり、大人になってからは人気役者となります。
アメリカへ
1914年、20代半ばのチャップリンは、劇団のアメリカ巡業公演時にキーストン社にスカウトされ、アメリカに活躍の場を移し、喜劇映画への出演で瞬く間に大人気となります。
チャップリンは、映画スターたちの社交場だったロサンゼルスのホテルに暮らしていました。しかし、幼い頃が貧しい生活だったので、スターになってからもつつましい生活を送っていました。
チャップリンの秘書・高野虎市とは
高野虎市の生い立ち
高野虎市(こうのとらいち・1885年生まれ)は、1900年に広島からアメリカに渡った日本人の移民男性です。
裕福な名士の家出身の高野は、許嫁が決められていたことが嫌で、自由を求め15才の時にいとこを頼ってシアトルに渡航します。
チャップリンの運転手になるまでの仕事
高野はポーターや店員、お金持ちの家での住み込みとして働きながら通学し、ハイスクールで当時最先端の自動車工学を学んだ後、大会社社長や富豪の専属運転手になります。
28才の時、同郷の女性と結婚し、亡くなった父の相続で得た金でロサンジェルスに移住し、飛行士を目指したものの事故で機体を大破させその道を断念し、車の運転手の仕事に戻ります。
チャップリンと高野虎市
二人の出会い
米国に来て2年目の1916年、チャップリンは面接に来た高野虎市を専属運転手として採用します。チャップリン27才、高野31才の時のことです。
(高野は以前の雇い主の紹介で面接を受けた。特にチャップリンのファンだったという訳ではない)
チャップリンは、運転技術の高さや効率的な仕事ぶりから、すぐに高野を気に入り信頼するようになります。
チャップリンと日本
当時のロサンゼルスではアジア人差別が当たり前でしたが、チャップリンには差別的考えがなく、使用人にも平等に接していました。
また、新たな使用人が必要な時に、高野が知人に声をかけたことから、チャップリン邸の使用人は一時期日本人だらけだったそうです。(多い時で17人)
チャップリンはもともとは日本について知りませんでしたが、高野を通して日本を知り、日本文化に造詣が深くなります。
秘書業務
高野がチャップリンの元で働くようになってから5年ほど経過した頃には、プライベート面の秘書業務も任されるようになり、高野はチャップリン邸を取り仕切り、チャップリンが集中して役者の仕事に臨めるようバックアップしました。
チャップリンの高野への信頼は絶大で、小切手にチャップリンの代理でサインする権限まで与えていたそうです。
高野は、チャップリンから住まいや衣服などを買い与えられたので、給与はまるまる残り、おかげで心臓の弱い高野の妻は手術を何度も受けることが出来たそうです。
チャップリンは、天才役者ゆえ気分屋で気難しい面もありましたが、高野はチャップリンの才能に惚れこんで尽くし、チャップリンにとっても高野は、心を許せる数少ない相手だったようです。
チャップリンが二番目の妻から離婚訴訟を起こされ神経衰弱になった時には、高野は献身的に看病し寄り添い、1931年~1年半の世界旅行にも同行しました。
別れ
世界旅行から帰国した年、高野は、チャップリンの3度めの妻・ポーレット・ゴダード(「モダンタイムズ」の相手役)に金使いの荒さを指摘したことで、ポーレットの怒りを買い、チャップリンにクビと言われ辞めてしまいます。
高野は、誰よりもチャップリンのことを知っているという自負があったので、ポーレットが色々任されるようになったことが気に食わず、ポーレットもチャップリンと親しすぎる高野の存在が嫌だったようです。(チャップリンが遺産相続の1人に高野を指定していたことも嫌だった)
ただ、チャップリが勢いで「クビだ!」と言うことはそれまでも何度かあり(その時はしばらくすると元のように働いていた)、高野がその時辞めると言ったのも、チャップリンは冗談だと思っていたようです。
チャップリンの元を離れた高野でしたが、日本へ帰国するまでの間の給与や多額の退職金などが支給されていたそうです。
その後の暮らし
その後高野は、新たに事業をしたり、戦時中でスパイとして拘束されるなどありながらも、晩年は故郷の広島で暮らします。
本人が口にしなかったため、、高野がかつてチャップリンの秘書をしていたということは当時知られていなかったようです。
結局高野はチャップリンの元を去ってから一度も再会することはなく、1971年3月に80代で他界しました。
翌年、日本でチャップリンの映画のリバイバル上映でブームが起き、チャップリンの娘が来日していて、高野のことを探しに広島まで来て、前年に亡くなっていたことを知ります。
(再会を果たせなかったチャップリンの悲しみの深さが想像されます)
チャップリンの後半生
チャップリンは、政治姿勢が共産主義であると批判され、1952年に舞台のため国外にいる際に米国入国禁止とされます。
その後、冒頭のアカデミー賞の授賞式まで20年間、米国に足を踏み入れていませんでした。
1972年4月のアカデミー賞特別賞の授賞式に参加した際には、NHKの仕事でインタビューしに来た黒柳徹子が「日本から来ました」と挨拶すると、チャップリンは目を潤ませ、知っている限りの日本語の単語を話し、握手した手を離さなかったそうです。きっと思いがけず高野のことを思い出して、感涙したのではないかと思います。
その後チャップリンは1977年に88才で逝去します。
感想
秘書という仕事上の関係ではあったのですが、二人の絆や信頼し合う関係性が本書から読み取れて、チャップリンにとって高野は大事な友人のような人だったのだなと感じました。
別れの時の、妻との三角関係?が、恋人の取り合い・男女の三角関係の心境みたいでちょっと笑ってしまいました。
書籍
現在取り扱っている書店は少ないようです。中古で購入するか、図書館で置いてあるところもあると思います。