人物

チャップリンと日本人秘書・高野虎市

2022年7月3日

チャップリンが雇っていた使用人・高野虎市について「チャップリンと日本人秘書・高野虎市」という本を元にまとめました。

20世紀の喜劇王・チャーリーチャップリンは親日家として知られていますが、長年雇っていた日本人秘書が大きく影響を与えていたようです。

チャップリンと日本人秘書・高野虎市

※こちらの本は、現在取り扱っている書店が少ないようです。

チャップリンの生い立ち

1889年に英国・ロンドン南部に生まれる。1才の時に両親が離婚し、母は病気だったため、兄・シドニーとともに貧民院を転々とする生活を送った。

両親はミュージックホールの芸人だったことから、チャップリンも子役として舞台に立つようになり、やがて大人になると人気役者となった。

1914年、20代半ばでアメリカ巡業に行った際に、キーストン社にスカウトされる。アメリカに活躍の場を移し、喜劇映画への出演で瞬く間に大人気となる。

チャップリンは、映画スターたちの社交場だったロサンゼルスのホテルに暮らしていましたが、幼い頃が貧しい生活だったので、スターになってからもつつましい生活を送っていました。

高野虎市とは

高野虎市(こうのとらいち・1885年生まれ)は、広島からアメリカに渡った日本人移民です。

裕福な名士の家出身の虎市は、許嫁が決められていたことが嫌で、15才の時に自由を求め、親類を頼ってシアトルに渡航します。

ポーターや店員、お金持ちの家での住み込みとして働きながら通学し、ハイスクールで当時最先端の自動車工学を学び、大会社社長や富豪の専属運転手になります。

28才で同郷の女性と結婚し、亡くなった父の遺産でロサンジェルスに移住します。飛行士を目指したものの事故で機体を大破させその道を断念し、車の運転手の仕事に戻ります。

チャップリンとの出会い

チャップリンが米国に来て2年目の1916年、チャップリンは面接に来た高野虎市を専属運転手として採用します。チャップリン27才、高野31才の時。

(高野は以前の雇い主の紹介で面接を受けただけで、チャップリンのファンだった訳ではない)

チャップリンは、運転技術の高さや効率的な仕事ぶりから、すぐに高野を気に入って信頼します。

当時のロサンゼルスではアジア人差別が当たり前でしたが、チャップリンには差別的考えがなく使用人にも平等に接していました。

新たな使用人が必要な時に高野が知人に声をかけたことから、チャップリン邸の使用人は一時期日本人だらけ(多い時で17人)だったそうです。

チャップリンは高野を通して日本を知り、日本文化への造詣を深めます。

秘書業務を任される

高野がチャップリンの元で働くようになってから5年ほど経過した頃には、プライベート面の秘書業務も任されるようになり、高野は邸を取り仕切り、主人が役者の仕事に集中できるようバックアップしました。

チャップリンの高野への信頼は絶大で、小切手にチャップリンの代理でサインする権限まで与えていました。

高野は、チャップリンから住まいや衣服などを買い与えられたので給与がまるまる残り、おかげで心臓の弱い高野の妻に、手術を何度も受けさせることが出来たそうです。

チャップリンは天才役者ゆえ気分屋で気難しい面もありましたが、高野は心を許せる数少ない相手だったようです。

チャップリンが二番目の妻から離婚訴訟を起こされ神経衰弱になった時には、高野が献身的に看病し寄り添いました。1931年~1年半の世界旅行にも同行しました。

別れ

世界旅行から帰国した年、高野は、チャップリンの3番目の妻・ポーレット・ゴダード(「モダンタイムズ」の相手役)に金使いの荒さを指摘したことで、ポーレットの怒りを買い、チャップリンにクビと言われ辞めてしまいます。

高野は、誰よりもチャップリンのことを知っているという自負があったので、ポーレットが色々任されるようになったことが気に食わず、ポーレットもチャップリンと親しすぎる高野の存在が嫌だったようです。(チャップリンが遺産相続の1人に高野を指定していたことも嫌だった)

ただ、チャップリが勢いで「クビだ!」と言うことはそれまでもあり、高野がその時「辞める」と言ったのも、チャップリンは冗談と思っていたようです。

チャップリンの元を離れた高野でしたが、日本へ帰国するまでの間の給与や多額の退職金などが支給されていたそうです。

その後の暮らし

その後高野は、新たに事業を起こしたり、戦時中でスパイとして拘束されるなどありながらも、晩年は帰国し故郷の広島で暮らします。本人が口にしなかったため、高野がチャップリンの秘書をしていたということは知られていませんでした。

結局二人はその後一度も再会することはなく、高野は1971年3月に80代で他界します。

翌年、日本でチャップリンの映画のリバイバル上映でブームが起き、チャップリンの娘が高野のことを探しに広島まで来ますが、前年に亡くなっていたことを知ります。(再会を果たせなかったチャップリンの悲しみの深さが想像されます)

チャップリンの晩年

一方のチャップリンは政治姿勢が共産主義であると批判され、1952年に舞台のため国外にいる際に米国入国禁止にされてしまい、アカデミー賞を授賞式に呼ばれるまでの20年間、米国に足を踏み入れていませんでした。

1972年4月、米国で行われたアカデミー賞特別賞の授賞式に参加した際に、NHKの仕事でインタビューしに来た黒柳徹子さんが「日本から来ました」と挨拶すると、チャップリンは目を潤ませ、知っている限りの日本語の単語を話し、握手した手を離さなかったそうです。

きっと思いがけず高野さんのことを思い出し、感涙したのではないかと思います。

その後チャップリンは1977年に88才で逝去します。

感想

秘書という仕事上の関係ではあったのですが、二人の絆や、信頼し合う関係性が本書から読み取れて、チャップリンにとって高野は大事な友人のような人だったのだと感じました。

別れの時の、妻との関係が、恋人の取り合い・男女の三角関係の心境みたいでちょっとほほえましい感じがしました。

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