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黒柳徹子の若い頃がかわいい!【生い立ちや性格・結婚のこと】

2022年4月13日

黒柳徹子さんはどんな人でなぜ有名なの?

この記事では、徹子さんのプロフィールと生い立ち、昔の写真や人気の理由、結婚や恋人について、人気になるまでの軌跡などをまとめました。徹子さんのすごさが分かる内容となっています。

黒柳徹子の若い頃の写真や人気の理由

音大卒業後、NHKの専属女優としてデビューし、ドラマや声優、バラエティ番組で人気を博した黒柳徹子さん。

<下記本の表紙はTVデビューした20才前後の頃の徹子さん>

30代後半には、人生を見つめ直すためNYに留学し、演劇の勉強などをします。

<NY留学中の徹子さん タマネギヘアもこの頃誕生した>
留学中の写真は著書「チャックより愛をこめて」にたくさん載っています

帰国後は「徹子の部屋」の前身のトーク番組の司会に就任し、その後もマルチタレントとして活躍しつづけます。

80代の現在も「徹子の部屋」や「世界ふしぎ発見!」などのテレビ出演に加え、インスタやyoutubeを開設し年齢の壁を越えた活躍ぶりで人々を驚かせています。

長らく芸能界の第一線で活躍し続けてきたことから、親交のあるタモリさんは徹子さんを「動く放送博物館」と表現しています。

→20才の頃の写真はとても可愛いらしいく、服もおしゃれで素敵ですね!

→声楽科出身なので歌が上手で、くったくなく明るく飾らない人柄で、良く喋って個性的で面白くてこのかわいらしい容姿ともなると、人気になるのも納得です。

黒柳徹子の夫は誰?結婚歴は?子供いるの

ユニセフ親善大使として世界の子供を支援する活動を行い、子供好きな徹子さんですが、これまで結婚歴はなく、現在も独身で子供はいません。

ただ、20代前半にはお医者さんとお見合いをして結婚間近まで進んだこともあり(お見合いの顛末は著書トットチャンネル に書かれてます)、

30代からは、留学時代に知り合った外国人ピアニストと40年間交際していて、2017年に出演した『1周回って知らない話 黒柳徹子に失礼な質問10連発SP』という番組でそのことを明かしています。

お相手はブルガリア出身のユダヤ人ピアニスト・ワイセンベルク氏と言われています。(2012年に82才で他界)

→外国人ピアニストだなんて素敵だし徹子さんにピッタリですね!(距離が遠く、お互い仕事があり結婚はしなかったようです)

2020年に、「徹子の部屋」の名場面集を見て、「以前の徹子さんは今より笑顔が多い感じだな。2012年に盟友の森光子さんが亡くなったり親しい人が他界してしまい気落ちしたのかな?」と思っていましたが、

恋人の方もその頃他界されたようで、それなら、あれだけいつも元気な方も元気をなくすだろう、と思いました。

それでも長年付き合った方の存在を知り、こちらも嬉しくなりました。

黒柳徹子さんのプロフィール

1933年8月9日生まれ

年齢:89才

あだ名:トットちゃん、チャック、たまねぎおばさん

東京 乃木坂生まれ

出身校はトモエ学園、香蘭女学校、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科卒業

1953年にNHKの専属女優として芸能界デビューし人気女優となる

ユニセフ親善大使、文化功労者、勲三等瑞宝章

徹子という名前の由来は、両親が男の子が生まれると思っていて徹(とおる)という名前に決めていて、女の子だったので子をつけて徹子という名前にしたそうです。

また、長崎に原爆が落ちて以降は誕生日を祝うのはやめたそうです。

家族構成

黒柳徹子さんが育った家の家族構成は、父、母、弟3人、妹1人です。(うち1番目の弟は幼少期に他界)

 父・黒柳守綱(くろやなぎもりつな)

1908年生まれ 新交響楽団(NHK交響楽団)のバイオリニスト・コンサートマスターを務める。

人見知りで大人しく、外では口数が少ない性格。愛妻家だったそうです。1983年74才で死去

 母・黒柳朝(くろやなぎちょう)

1910年生まれ 北海道出身。父親、祖父が医者という家に長女として生まれる。東洋音楽学校(現東京音楽大学)の学生時代に守綱と出会って結婚。5人の子供をもうける。2006年95才で死去

(祖先は伊達藩で、朝さんのお父さん(徹子さんの祖父)は無医村で医者になるため北海道に移住したという志の高い方で、宮城で医学を学んでいた時は魯迅と同級生だったそうです)

朝さんの著書「チョッちゃんが行くわよ」は1989年に朝ドラ「チョッちゃん」としてドラマ化された。

→ご両親はベードヴェンの第九の講演会で出会い、まだ音大生だったお母さんにお父さんが一目ぼれして猛烈にアプローチし、そのまま結婚したそうです。

美男美女のご両親の写真は、徹子さんの著書「トットチャンネル 」や「徹子さんの美(み)になる言葉」で見れます。

 弟・黒柳明兒

徹子さんのすぐ下の弟。幼少期に他界。不思議なことに徹子さんは明兒さんとの思い出をほとんど覚えていないそうです。

 弟・黒柳紀明

徹子さんの2番目の弟。1940年生。バイオリン奏者として活躍。

 妹・黒柳眞理

徹子さんの妹。1944年生 元バレリーナ、エッセイストで、テレビ番組に出演していたこともあった。

 弟・黒柳貴之

徹子さんの3番目の弟。一般人。(母親が47才の時の子供で、徹子さんと24才離れている)

黒柳徹子さんの生い立ち(なぜあだ名が”トットちゃん”?)

小さいころに置いてきたもの表紙

 <幼少期の写真 すぐ下の弟さんと 著書「小さいころに置いてきたもの」表紙>

徹子さんは、音楽家の両親のもとに初めての子として誕生しました。

父方・母方両方の祖父がお医者さんで、お父様も有名なバイオリニストてあり、また著書でも「疎開する前はお手伝いさんのいる生活だった」と記していることから、一般的な家庭に比べて裕福な生活を送っていたようです。

また、父親は仕事柄外国人と交流することも多く、徹子さんにとっても外国文化が身近だったようです。

→著書ではご両親のことを「パパ」「ママ」と記していて、戦前では珍しい気がしました。

お父様はお母様にぞっこんで、仕事が終わるといつもいそいそと家に帰って来ていたそうです。そのように愛があふれた暖かい家庭が、徹子さんの素直で明るく天真爛漫な性格を育んだのだなと思います。

 

徹子さんというと「トットちゃん」というニックネームが広く知られていますが、これは、徹子さんがまだ幼くて言葉をうまく言えず、自分のことを「テツコ」と言うのを舌足らずで上手く言えず「トット」と言っていてたというのが始まりです。

→お父さんだけは徹子さんが大きくなっても「トット助」と呼んでいたそうです。何だかかわいらしいですね。

いつも元気なイメージの徹子さんですが、5才の時には結核性股関節炎という足の病気で数か月入院していたこともあったそうです。

→このときの話は徹子さんの著書「小さいときから考えてきたこと」の冒頭に書かれていて、印象深いエピソードです。

小学校時代(トモエ学園での日々)

学齢になり、徹子さんは小学校に入学しますが、教室内を歩いたり落ち着きがないことから問題児扱いされ退学し、私立のトモエ学園に転校します。

トモエ学園は、各学年10人以下の少人数制の、リトミック教育という音楽教育を取り入れている自由な校風の学校です。

徹子さんはこの学校で、徹子さんのことを暖かく見守ってくれる小林校長先生と出会います。

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当時徹子さんは(気にしない性格だったものの)、一人だけ何となく冷たい目で見られているような疎外感を感じはじめていた頃だったので、校長先生から「きみは本当はいい子なんだよ」という言葉をかけられ続けたことが支えとなり、「校長先生のおかげで今がある」と本のあとがきに記しています。

(徹子さんのお母さんも、退学のことは大人になるまで徹子さんに言わないでくれたそうです)

→今の時代だと公立小学校で退学なんてありえない気がしますが、当時はそういうこともあったのですね‥。いつも明るい徹子さんは周りに人が沢山いるイメージなので、疎外感を感じるようなことがあったというのは本当に意外でした。

本に書かれているトモエ学園は本当に素晴らしい環境で、私もそんな学校に通えるなら通ってみたかったなと羨ましいです。

徹子さんは、LD(学習障害児)と言われていて、そのことについては著書「小さいときから考えてきたこと」の「私ってLDだったの?」の項で触れられています

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1944年、徹子さんが小学校高学年の時、父親が戦争で出征し、翌年には母親と徹子さん達は知人をたより青森県の三戸郡に疎開します。

青森での生活中には、旅まわりの芝居の女座長さんに「逸材だから」と芝居の一座にスカウトされたこともあったそうです。

NHK専属女優へ

昔のテレビ

第二次世界大戦が終わり、シベリアで捕虜になっていた父親も1949年末に帰国し、無事再会を果たします。

→お父様は捕虜になったあと収容所をバイオリンを演奏するため慰問してまわり、最後の引き揚げ船で帰国したそうです。

無事再会出来たのは良かったですが、その時徹子さんはすっかり成長し女学生になっていたとのことで、数年間も父親が子供に会えないなんて悲しいことですね。

東京に戻り、香蘭女学校に進学した徹子さんは、イタリア製のオペラ映画「トスカ」を見てオペラ歌手に憧れを抱き、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の声楽科に入ります。

→東京音楽大学は山崎育三郎さんや松下奈緒さんなども出身の大学です!

学生生活が終わりになり、友人たちがみな就職先を決めて来ている中、徹子さんは卒業後のことを何も決めていませんでした。(声楽家は諦めていて、徹子さんのお父さんも「早くお嫁に行くのが良い」と考えていた)

そんな中、徹子さんは電柱のポスターに惹かれ、銀座で「雪の女王」の人形劇を見て感激します。

徹子さんは、子供に人形劇を見せてやったり上手に絵本を読んであげられる母親になりたいと思って、新聞の求人欄で見つけた日本で始まるテレビ放送(NHK)の専属女優募集に、親に内緒で気軽な気持ちで応募します。

女優デビューするも落ちこぼれ

徹子さんは、応募者約6000人・選考6回の難関を見事突破し、28人のうちの1人に選ばれたます。合格後はNHKの役者養成所で1年3か月の養成期間を過ごします。(当時NHKのあった新橋の内幸町に毎日通っていました)

綺麗な人や芝居の経験がある人が多い中、何の経験もない徹子さんは自信はありませんでしたが、養成期間を終え、NHK東京放送劇団の第五期生・かつNHKが養成したテレビの一期生として昭和28年(1953年)にデビューします。(最終的に残ったのは13人)

徹子さんがデビューした年は日本のテレビ放送が開始した年で、当時の日本のテレビの台数は866台、大卒の初任給が1万1千円だった時テレビは25万円でした。

テレビの映りは、今のようにクリアではなく、もちろん白黒で画面に横線が沢山走ってる感じだったそうです。

→テレビの値段は、今の感覚に換算すると、初任給が20万くらいでテレビが500万という感じでしょうか‥。

デビュー当初徹子さんは、通行人などその他大勢の役を上手くできず目立ってしまって注意され、途中で「帰っていいよ」と言われてしまったり、先輩俳優に「日本語がおかしい、直せ」と言われてショックで裏で壁を叩いて泣いたこともあったそうです。

→徹子さんというと、生まれながらの芸能人というイメージなので、「トットチャンネル 」を読んで、普通の人と同じように沢山悩んだり試行錯誤をしてたということが新鮮でした。

(養成所の卒業式に遅刻し泣いてしまったことや、厳しい指導をする怖い先輩の存在が、後になってありがたかったと気づいた話や、雑誌のインタビューで全く言ってないことを書かれてショックで悲しかった、などのエピソードもありました)

ちなみに当時は録画放送がないので全てが生放送で、大道具の作りが不十分で、ドラマ生放送の最中にセットの壁が倒れて来た、というトンデモトラブルもつきものでした。

なお、この頃はオードリーヘップバーンの映画が大流行した時期で、徹子さんもオードリー風の髪型や服装をしていてその写真はとても可愛らしく、徹子さんスタイルいいなーと思いました。

→ネット上に徹子さんの身長は163cmと言う情報がありました。

徹子さんの年代だと、成長期が戦争時の食料不足期で十分に食べらなかったことから小柄な方もいるので、当時としてはかなりスラッとしている方だったのではと思いました。

人気女優へ

舞台の幕

デビューの翌年、徹子さんは、3匹の白い子猿が主役の「ヤン坊ニン坊トン坊」というラジオドラマの子猿の声優に抜擢されます。

当時は子供の役の声優は子供がやるのが普通で、大人が子供の声を演じることは初めての試みでした。

このラジオドラマの劇作家・飯沢匡さんは「君はそのままでいい」という言葉をかけてくれ、当時自信を持てなかった徹子さんにとって、それが大きな支えになります。

「ヤン坊ニン坊トン坊」は大好評を博し、徹子さんたちはNHK3人娘として評判になります。

その後徹子さんは人気女優として引っ張りだこになり、週のレギュラーが10本あり睡眠時間が毎日3時間ということが続き、過労で耳が聞こえなくなり一か月入院してしまったこともありました。

1961年には、演技力向上とお芝居を学ぶために文学座に研究生として入所。1967年にはNHKを辞めてフリーに転身し、森光子さんと同じ事務所に所属するようになります。

ニューヨークへの留学と司会業への転向

30代後半までテレビや舞台に出演し、第一線を走りつづけた徹子さんでしたが、「芸能人としてちやほやされることに慣れない方が良い」と人生を見つめ直すため、38才で1年間仕事を休んでアメリカに留学します。

ニューヨークでは演劇学校に通うなどして過ごします。

帰国後、徹子さんは「徹子の部屋」の前身の番組の司会になったのを境に、ドラマへの出演をやめます。

理由は、以前ドラマ内で酔った演技をした際、(飲んでいないのに)スタッフにお酒を本当に飲んでると勘違いされ、簡単に騙される姿を目にしていたので、もし悪女役をするとなったら、司会をしていても「本当は悪女なのに”徹子の部屋”ではいい人のふりをして話を聞いている」と思われかねないから、というものです。(舞台への出演は続けた)

→確かに、ドラマ内で意地悪な役がはまっていると、地の性格だと思えたりしますしね。

1981年(47才の時)には、雑誌「若い女性」に連載していたエッセイをまとめた「窓ぎわのトットちゃん」が大ベストセラーになり、世界各国でも出版されました。

表紙・挿絵は絵本作家のいわさきちひろさんの作品で、徹子さんは現在もちひろ美術館の館長もされています。

社会貢献活動(ユニセフ親善大使)

徹子さんは女優デビューした頃から、本の朗読のボランティアを行っていました。(目の不自由な人が本を楽しめるようにするため、本の朗読をテープに録音する)

母校のトモエ学園は、体に障害がある子もいて「みんな一緒にやる」という考えが当たり前だったため、福祉活動を行うことは、徹子さんにとって自然なことだったとのことです。

さらに「窓ぎわのトットちゃん」の印税で「社会福祉法人トット基金」を設立し、耳の不自由な方のプロの劇団を発足してその活動を支援します。

さらに1984年には、「窓ぎわのトットちゃん」がきっかけで、世界で4人目・日本人初のユニセフ親善大使に任命されました。毎年アフリカやアジアなどの各国に赴き、現地の現状を視察し子供たちと交流を行っています。

→トモエ学園に通っていた頃には、体の不自由な子が他校の児童にからかわれたら、体が小さい徹子さんは全力で相手に対抗して食ってかかって行ったそうです。

思いやりがあってまっすぐとした性格なのだなと思います。

徹子さんがパンダ好きなのはなぜ?

徹子さんのパンダ好きは有名ですが、その始まりは、叔父さんから貰ったアメリカ土産のパンダのぬいぐるみでした。

とても気に入って大事にしていて、小学生の時読んだ本で、人形がパンダという動物であることを知って以来、パンダ研究家になったそうです。

現在は日本パンダ保護協会の名誉会長もされています。

 

出演番組

徹子さんが出演していた/している番組一例を紹介します。

徹子の部屋

1976年に開始した放送回数1万回を超える長寿トーク番組。放映開始当時の徹子さんは42才でした。

この番組内では徹子さんは一貫してタマネギヘアを結っているのですが、その理由は、徹子さんが髪型を変えると、視聴者の興味がそっちに行ってしまうかもしれない、せっかく来て頂いたゲストとのトークに耳を傾けてもらいたい、というものです。

→髪型は単にトレードマークということだけではなく、番組づくりへの配慮があったなんて驚きです!なお、マイクは洋服に付けずにタマネギ頭の中に隠してあるそうです。

日立 世界ふしぎ発見!

1986年に開始した世界各国をテーマにしたクイズ番組。黒柳さんはレギュラー回答者として出演し、ほぼ毎回衣装は着物です。

→司会の草野仁さんも開始当初から変わらず、現在78才で、良く考えるとすごい長寿番組ですね!

ザ・ベストテン

1978年~1989年、TBS系列で毎週木曜に放映された、ランキング形式で邦楽の人気曲を放映する歌番組。久米宏さんと組んで司会をしていました。

→ベストテンの時期はテレビの黄金期という感じで、徹子さんの本を読んで見ると、テレビ業界に情熱と活気があふれていた様子が伝わって来ますし、子供の頃に家族と一緒に、番組が始まるのをわくわくしながら楽しみにしていた記憶が懐かしいです。

なお「たまねぎ伯母さん」という愛称は、久米さんが初めに言い出したものだそうです。

ブーフーウー

1960年~1967年にNHKで放映されていた子供向けテレビ人形劇。着ぐるみのブタの三兄弟が主人公で、徹子さんは末っ子ウーの声優を担当。

この作品の脚本も飯沢匡先生で、長男ブーはドラえもんの初代声優・大山のぶ代さんです。

夢で逢いましょう

1961年~1966年にNHKで放映されていたバラエティ番組。最後の1年間は司会も担当。

交友関係

芸能生活が長い徹子さんは、幅広い交友関係をお持ちです。本にエピソードのあった方の一例を記載します。

向田邦子

故・向田邦子さんは脚本家・小説家として活躍した方です。

徹子さんが30才を過ぎたころラジオドラマで知り合い、すぐに仲良くなり(二人は4才違いで向田さんの方が年上)一時期徹子さんは向田さんの霞町のマンションに毎日行って入り浸っていてたそうです。

テレビ局がすぐそばだったので、徹子さんは仕事の合間に立ち寄り、お互い脚本を書いたり台本を読んだり別のことをしている時もあれば、向田さんの料理で一緒に食卓を囲んだり、色々話したりすることも多かったそうです。

タモリさん

タモリさんがテレビに出始めた頃に脇役で出演していたのを徹子さんが目にして、赤塚不二夫さんを介して「徹子の部屋」へに招いて以来、交流が続いています。

森光子さん

以下作成中

 

以上、黒柳徹子さんについてのまとめでした。

徹子さんファンなのでまとめてみましたが、改めて活躍の幅の広さに驚き、すごい!と尊敬する気持ちになりました。

(この記事は、黒柳徹子さんの以下の書籍を参考にまとめています)

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