黒柳徹子さんの昔の写真や人気の理由、結婚や恋人について、後半にはプロフィールと生い立ち、人気になるまでの軌跡やテレビ以外の活動についてをまとめました。
目次
黒柳徹子の若い頃の写真や人気の理由
音大卒業後、NHKの専属女優としてデビューし、ドラマや声優、バラエティ番組に出演し人気を博した黒柳徹子さん。
<TVデビューした20才前後の頃の徹子さん 著書「トットチャンネル 」表紙>
30代後半には、人生を見つめ直すためNYに留学し、演劇の勉強などをします。
散々既出だけど38歳のときの黒柳徹子が本当にかわいい pic.twitter.com/vymswbIxgn
— たたかわないアスカハニー (@sswd56) February 23, 2019
<NY留学中の徹子さん タマネギヘアもこの頃誕生した>
留学中の写真は著書「チャックより愛をこめて」にたくさん載っています
帰国後は「徹子の部屋」の前身のトーク番組の司会に就任し、その後もマルチタレントとして活躍しつづけます。
80代の現在も、放送回数1万回を超える「徹子の部屋」の司会や「世界ふしぎ発見!」などのテレビ出演に加え、インスタやyoutubeを開設し年齢の壁を越えた活躍ぶりで人々を驚かせています。
長らく芸能界の第一線で活躍し続けてきたことから、「日本のテレビの歴史=黒柳徹子」という感もあり、親交のあるタモリさんは徹子さんを「動く放送博物館」と表現しています。
→20才の頃の写真はとても可愛いらしいく、服もおしゃれなで素敵な雰囲気ですね!
→声楽科出身なので声が通って歌がうまくて、くったくなく明るく飾らない人柄で、良く喋って個性的で面白くてこのかわいらしい容姿、ともなると人気になるのも納得です。
黒柳徹子の夫は誰?結婚歴は?子供いるの
【婦人公論】
「ウクライナの子どもたちのための募金を呼び掛けた黒柳さん」#黒柳徹子「こんなふうに穏やかに暮らせるのは、平和があってのこと。何よりも平和が一番大事だと思う」 『徹子の部屋』の衣装は、子どもの活動団体に寄贈 https://t.co/pFzzZGkoze #婦人公論
— 婦人公論 (@fujinkoron) April 15, 2022
ユニセフ親善大使として世界の子供を支援する活動を行い、子供好きな徹子さんですが、結婚歴はなく、現在も独身で子供はいません。
ただ、20代前半にはお医者さんとお見合いをして結婚間近まで進んだこともあり(お見合いの顛末は著書「トットチャンネル 」に書かれてます)、
また、30代からは、留学時代に知り合った外国人ピアニストと40年間交際していて、2017年に『1周回って知らない話 黒柳徹子に失礼な質問10連発SP』という番組に出演した際にそのことを明かしています。
お相手は2012年に82才で他界した、ブルガリア出身のユダヤ人ピアニスト・ワイセンベルク氏と言われています。
→外国人ピアニストだなんて素敵だし徹子さんにピッタリですね!
2020年に「徹子の部屋」の再放送が放映されていて、「昔(10年以上前)の徹子さんは今よりもっと笑顔が多い感じだな。年もあるし2012年に盟友の森光子さんが亡くなるなど親しい人々が他界してしまって気落ちしたのかな?」と思っていたのですが、
その恋人の方もその頃他界されたようで、それなら、あれだけいつも元気な方も元気をなくすだろう、と思いました。
お互い仕事があり結婚はしなかったようですが、長く添い遂げる人がいたことは幸せで、こちらも嬉しくなりました。
プロフィール
・1933年8月9日生まれ 年齢:88才
・東京 乃木坂生まれ
・トモエ学園、香蘭女学校、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽家卒業
・NHKの専属女優として芸能界デビューし人気女優となる
・ユニセフ親善大使、文化功労者
徹子という名前の由来は、両親が男の子が生まれると思っていて「徹」という名前に決めていて、女の子だったので子をつけて徹子という名前にしたそうです。
また、長崎に原爆が落ちて以降は誕生日を祝うのはやめたそうです。
家族構成
父・黒柳守綱(くろやなぎもりつな)
1908年生まれ 新交響楽団(NHK交響楽団)のバイオリニスト・コンサートマスターを務める。
人見知りで大人しく、外では口数が少ない性格。妻を熱愛していたそうです。1983年74才で死去
母・黒柳朝(くろやなぎちょう)
1910年生まれ 北海道出身。父親、祖父が医者という医者の家系に長女として生まれる。東洋音楽学校(現東京音楽大学)の学生時代に守綱と出会い結婚。5人の子供をもうける。
(祖先は伊達藩に属していて、祖父は無医村で医者になるべく北海道に移住したという志の高い方で、宮城で医学を学んでいた時は魯迅と同級生だったそうです)
著書「チョッちゃんが行くわよ」は1989年に朝ドラ「チョッちゃん」としてドラマ化された。2006年95才で死去
→ご両親はベードヴェンの第九の講演会で出会い、まだ音大生だったお母さんにたお父さんが一目ぼれして猛烈にアプローチし、そのまま結婚したそうです。
美男美女のご両親の写真は、徹子さんの著書「トットチャンネル 」や「徹子さんの美(み)になる言葉」で見れます。
弟・黒柳明兒
徹子さんのすぐ下の弟。幼少期に他界。不思議なことに徹子さんは明兒さんとの思い出をほとんど覚えていないそうです。
→あまりに悲しいことでショックで忘れてしまったのかもしれないですね。
弟・黒柳紀明
徹子さんの2番目の弟。1940年生。バイオリン奏者として活躍。
妹・黒柳眞理
徹子さんの妹。1944年生 元バレリーナ、エッセイストで、テレビ番組に出演していたこともあった。
弟・黒柳貴之
徹子さんの3番目の弟。一般人。(母親が47才の時の子供で、徹子さんと24才離れている)
黒柳徹子さんの生い立ち(なぜ呼び名が”トットちゃん”?)
<幼少期の写真 すぐ下の弟さんと 著書「小さいころに置いてきたもの」表紙>
徹子さんは、音楽家の両親のもとに初めての子として誕生しました。
徹子さんは、父方・母方両方の祖父がお医者さんで、お父様も有名なバイオリニストてあり、また著書でも「疎開する前はお手伝いさんのいる生活だった」と記していることから、一般的な家庭に比べて裕福な生活を送っていたようです。
また、父親は仕事柄外国人と交流することも多く、徹子さんにも外国文化が身近だったようです。著書ではご両親のことを「パパ」「ママ」と記していて、戦前では珍しい気がしました。
お父様はお母様にぞっこんで、仕事が終わるといつもいそいそと帰って来ていたそうです。そのように愛があふれた暖かい家庭が、徹子さんの素直で明るく天真爛漫な性格を育んだのだなと思います。
徹子さんというと「トットちゃん」というニックネームが広く知られていますが、これは、徹子さんがまだ幼くて言葉をうまく言えず、自分のことを「テツコ」と言うのを舌足らずで上手く言えず「トット」と言っていてたというのが始まりです。
→お父さんだけは徹子さんが大きくなっても「トット助」と呼んでいたそうです。何だかかわいらしいですね。
いつも元気なイメージの徹子さんですが、5才の時には結核性股関節炎という足の病気で数か月入院していたこともあったそうです。
→このときの話は徹子さんの著書「小さいときから考えてきたこと」の冒頭に書かれていて、印象深いエピソードです。
小学校時代(トモエ学園での日々)
[東京館]
国内累計800万部を超えるベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子・著)は今年刊行40周年を迎えます。ちひろの絵とともに世界中の人々から愛されているトットちゃんの作品を展示中です。会場にはトットちゃんと記念撮影ができるコーナーがありますので、ぜひすわってみてくださいね。 pic.twitter.com/qs8QyUAOav
— ちひろ美術館(東京・安曇野)【公式】 (@ChihiroMuseum) March 27, 2021
学齢になり、徹子さんは小学校に入学しますが、教室内を歩いたり落ち着きがないことから問題児扱いされ退学し、私立のトモエ学園に転校します。
トモエ学園は、各学年10人以下の少人数制の、リトミック教育という音楽教育を取り入れている自由な校風の学校です。
徹子さんはこの学校で、徹子さんのことを暖かく見守ってくれる小林校長先生と出会います。
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当時徹子さんは(気にしない性格だったものの)、一人だけ何となく冷たい目で見られているような疎外感を感じはじめていた頃だったので、校長先生から「きみは本当はいい子なんだよ」という言葉をかけられ続けたことが支えとなり、「校長先生のおかげで今がある」と著書に記しています。
(徹子さんのお母さんも、退学のことは大人になるまで徹子さんに言わないでくれたそうです)
→今の時代だと公立小学校で退学なんてありえない気がしますが、当時はそういうこともあったのですね‥。徹子さんにはいつも明るく周りに人が沢山いるイメージがあるので、疎外感を感じるようなことがあったというのは本当に意外でした。
本に書かれているトモエ学園は本当に素晴らしい環境で、私もそんな学校に通えるなら通ってみたかったなと思います。
なお徹子さんはLD(学習障害児)と言われていて、そのことについては著書「小さいときから考えてきたこと」の「私ってLDだったの?」の項で触れられています
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1944年、徹子さんが小学校高学年の時、父親が戦争で出征し、翌年には母親と徹子さん達は知人がいる青森県の三戸郡に疎開します。
青森での生活中には、旅まわりの芝居の女座長さんに「逸材だから」と芝居の一座にスカウトされたこともあったそうです。
NHK専属女優へ
戦争が終わり、シベリアで捕虜になっていた父親も1949年末に帰国し、無事再会を果たします。
→お父様は捕虜になったあと収容所をバイオリンを演奏するため慰問してまわり、最後の引き揚げ船で帰国したそうです。
無事再会出来たのは良かったですが、その時徹子さんはすっかり成長し女子学生になっていたとのことで、数年間も父親が子供に会えないなんて悲しいですね。
東京に戻り、香蘭女学校に進学した徹子さんは、イタリア製のオペラ映画「トスカ」を見てオペラ歌手に憧れ、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の声楽科に入ります。
→東京音楽大学は、山崎育三郎さんや松下奈緒さんなども出身の大学です!
学生生活が終わりになり、友人たちがみな就職先を決めて来ている中、徹子さんは卒業後のことを何も決めていませんでした。(声楽家は諦めていて、徹子さんのお父さんも「早くお嫁に行くのが良い」と考えていた)
そんな中、電柱のポスターに惹かれ、銀座で「雪の女王」の人形劇を見て感激します。
徹子さんは、子供に人形劇を見せてやったり上手に絵本を読んであげられる母親になりたいと思って、新聞の求人欄で見つけた日本で始まるテレビ放送(NHK)の専属女優募集に、親に内緒で気軽な気持ちで応募します。
女優デビューするも落ちこぼれ
応募者約6000人・選考6回の難関を見事突破し、28人のうちの1人に選ばれた徹子さんは、NHKの役者養成所に入り、1年3か月の養成期間を過ごします。(当時NHKのあった新橋の内幸町に毎日通っていた)
綺麗な人や芝居の経験がある人が多い中、何の経験もない徹子さんは自信はありませんでしたが、養成期間を終え、NHK東京放送劇団の第五期生・かつNHKが養成したテレビの一期生としてデビューします。(最終的に残ったのは13人)
デビュー当初は通行人などその他大勢の役を与えられますが、徹子さんは上手くできず目立ってしまって注意されたり、途中で「帰っていいよ」と言われてしまうことも多々あり、先輩俳優に「日本語がおかしい、直せ」と言われてショックで、裏で壁を叩いて泣いたこともあったそうです。
ちなみに当時は録画放送がないので全てが生放送で、大道具の作りが不十分で、ドラマ生放送の最中に壁が倒れて来た、というトンデモトラブルもつきものでした。
→徹子さんというと、生まれながらの芸能人で完成されている人、というイメージがあるので、「トットチャンネル 」を読んで、養成所の卒業式に遅刻し泣いてしまったことや、上記のガヤがうまく出来なかったエピソード、厳しい指導をする先輩を恐れていたけど後からありがたかったと気づいた話や、雑誌のインタビューで全く言ってないことを書かれてショックで悲しかった、などの話は、とても新鮮でした。(普通の人と同じように沢山悩んだり試行錯誤をしてたということを知れたので)
また、この頃”リリー白川”という芸名を名乗ろうとしていたというエピソードも面白かったです。(自分の名前が固くて言いにくいから)
→日本のテレビ放送が開始したのは昭和28年(1953年)で、当時の日本のテレビの台数は866台、大卒の初任給が1万1千円だった時テレビは25万円したそうです。今の感覚に換算すると、初任給が20万くらいでテレビが500万という感じでしょうか‥。
(テレビの映りも今のようにクリアではなく、もちろん白黒で画面に横線が沢山走ってる感じだったそうです)
人気女優へ
デビューの翌年、徹子さんは、3匹の白い子猿が主役の「ヤン坊ニン坊トン坊」というラジオドラマのオーディションを受け、子猿の声優に抜擢されます。当時は子供の役の声優は子供がやるのが普通で、大人が子供の声を演じることは初めての試みでした。
当時自分に自信を持てなかった徹子さんでしたが、このラジオドラマの劇作家・飯沢匡さんが「君はそのままでいい」という言葉を徹子さんにかけてくれ、それが大きな支えになります。
「ヤン坊ニン坊トン坊」は大好評を博し、徹子さんたちはNHK3人娘として評判になります。
その後徹子さんは人気女優として引っ張りだこになるのですが、週のレギュラーが10本あり睡眠時間が毎日3時間ということが続き、過労で耳が聞こえなくなり一か月入院したこともありました。
NYへの留学と司会業への転向
30代後半までテレビ女優や舞台に出演し、第一線を走りつづけた徹子さんでしたが、「芸能人としてちやほやされることに慣れない方が良い」、と人生を見つめ直すため、1年間仕事を休んでニューヨークに留学します。
ニューヨークから帰国後、徹子さんは「徹子の部屋」の前身の番組の司会になったのを境に、ドラマへの出演をやめます。(舞台への出演は続けた)
理由は、以前ドラマ内で酔った演技をした際、(飲んでいないのに)スタッフにお酒を本当に飲んでると勘違いされ、簡単に騙される姿を目にしていたので、もし悪女役をするとなったら、司会をしていても「本当は悪女なのに”徹子の部屋”ではいい人のふりをして話を聞いている」と思われかねないから、というものです。
→確かに、たとえばドラマ内で意地悪な役がはまっていると、本当にその人の性格が悪いように思えたりしますしね。
1981年には、雑誌「若い女性」に連載していたエッセイをまとめた「窓ぎわのトットちゃん」を出版し大ベストセラーになり、世界各国でも出版されました。
表紙や挿絵は絵本作家のいわさきちひろさんの作品で、徹子さんはちひろ美術館の館長もされています。
[安曇野館]
4/24(日)開催
青空トモエ学園「リトミックのじかん」ピアノや歌にあわせて、身体いっぱいに
音楽を体験しませんか?
ぜひ、親子でご参加ください。イベント詳細・お申し込みはこちらhttps://t.co/HNJfCztMFZ
作品:いわさきちひろ
春の野原でじゃんけんをする子どもたち 1970年 pic.twitter.com/uVm7ekb8E3— ちひろ美術館(東京・安曇野)【公式】 (@ChihiroMuseum) April 7, 2022
徹子さんは他にもいいろいろ著書を出されていて、基本的にはエッセイです。
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社会貢献活動
トモエ学園では体に障害がある子もいて、「みんな一緒にやる」という考えが当然だったため、福祉活動を行うことは、徹子さんにとって自然なことだったということで、
徹子さんは女優デビューした頃から、目の不自由な人のための本の朗読のボランティアを行っていました。(目の不自由な人が本を楽しめるようにするため、本の朗読をテープに録音する)
「窓ぎわのトットちゃん」がベストセラーになると、その印税で「社会福祉法人トット基金」を設立し、耳の不自由な方のプロの劇団を発足してその活動を支援します。
さらに1984年には、「窓ぎわのトットちゃん」がきっかけで、世界で4人目・日本人初のユニセフ親善大使に任命され、アフリカやアジアなどの各国に赴き、現地の現状を視察し子供たちと交流を行っています。
→トモエ学園に通っていた頃には、体の不自由な子が他校の生徒にからかわれたら、体が小さい徹子さんは全力で相手に対抗して食ってかかって行ったそうです。差別や憎しみ合いを好まない、まっすぐとした性格なのだなと思います。
パンダ愛好家
スタジオに #パンダ の #ガチ恋さん、#黒柳徹子 さんが沢山のグッズと一緒に来て下さいました🐼🎋
イヤリングやブローチ、キーホルダー、パンダ研究をするきっかけになった日本最古⁉︎のぬいぐるみまで‼️
皆、興味津々でした😊#全部徹子さんの私物#貴重 #どこにあるか探してね #嗚呼みんなの動物園 pic.twitter.com/CGGBRygw7B— 嗚呼‼︎みんなの動物園 (@minnano_zoo_ntv) April 9, 2022
徹子さんのパンダ好きは有名ですが、その始まりは、叔父さんから貰ったアメリカ土産のパンダのぬいぐるみでした。
とても気に入って大事にしていて、小学生の時読んだ本で、人形がパンダという動物であることを知って以来、パンダ研究家になったそうです。
交友関係
以下作成中
以上、黒柳徹子さんについてのまとめでした。(この記事は黒柳徹子さんの書籍「窓ぎわのトットちゃん」「トットチャンネル」「徹子さんの美になる言葉」「小さいときから考えてきたこと」を参照してまとめました。)
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